私たちは日々、目に見えない世界のものを感じながら生きている。
誰かがとったマウント、言葉、態度から音楽、詩、絵、お料理まで。。。
それそのものではなく、その裏にある感情やメッセージを無意識に受け取っている。
人を動かすのは、目に見えない何かがその人の心の琴線に触れた時。
ゴミ拾いを毎日やる人を見て、ご苦労さんやな。とか、私も何かできることがあるかな。と感じるのは、ゴミ拾いそのものではなく、その行為を通してその人の想いや自分の立ち位置を拾っているからだ。
怒りも同じ。「マウントを取っています。」と言っているわけでもないのにそう感じるのは、その発言や態度から発する、自分の負を刺激する目に見えないものを「その人のフィルターで」感じとっているから。もう少し言うと、自分の負に共鳴するものを拾うフィルターだ。ということ。それは他人との比較であったり、自分の望まない環境であったり、自分の劣等感であったり、強いられた我慢であったり。。。それが怒りとなって現れる。過去の記憶とシンクロしてそう感じる人もいるけれど、それは記憶を介しただけで根底にあるものは同じだ。
私のところにご相談に来られる方や、講座を受講されている方にはよくお伝えするけれど、怒りの根源は悲しみだ。そのままストレートに悲しみを感じることで怖くなってしまって何も言えなくなる人と、それを怒りに変えなければ折れてしまう、悲しみを受け止めるのが苦手な人。方法は違うけど、反応した内側にある「種」は同じです。
音楽を聴いて、過去の記憶や想いが蘇ってしまって出る涙に怒る人というのは、そういません。もし、怒りが湧くという人がいたら、それは音楽に怒っているのではなく、記憶を介した「種」にアクセスしてしまうからだ。この怒りというのは環境や状況に対してであっても、それを引き起こした、その状況を作った人に向く。
一方で、音楽や詩、絵やお料理など、創作物にはそのベクトルの向きを変える力がある。感情の中で負の感情というのは陽の感情よりも強く継続性がある。人に向くと当然衝突や軋轢を生む。だけれど、そのエネルギーの強さと継続性を「何かを創り出す」方向に向けた時、そのエネルギーは爆発的な追い風となる。
感情という見えない世界は、私たち人間にとって人生を彩ることもできれば、苦しく困難にすることもできる一番身近な目に見えない世界。
人間はいつのまにか、「目で見る」ということを絶対視するようになってしまった。目で受け取ることというのは、実は思っている以上に少ない。「目に見えるもの」はその裏側に本質があり、それは視覚で映さない。霊的なことというのは、その場所が異なるだけで私たちの日常にある目に見えない世界と何ら変わらないのだ。私が疑問なのは、霊的なことは一切信じないという人たちの中に、そんなものない!と言いながら、お葬式をし、お墓参りに行き、神社に行く。という人がいること。なんで?
音、感情、味、香り、言葉、温度、時間。
私たちの日常のほとんどは目に見えない。目に見えるものそのものにほとんど意味はない。勝手に意味を人間が付けているだけ。目に見えるものを通してその裏にある目に見えないものを捉えて初めて世界は広がる。その目に見えないものが糸となり、反物となり、その人の人生の羽衣を創る。
私たちは人生のほとんどを目に見えない世界で生きている。