執着と情熱の違いって何だと思いますか?
私は起点は同じなんだと思っています。その起点からどの方向へ向けるかによって、執着になり、情熱になる。ずっと同じような嫌な思いや出来事を繰り返している人が執着しているものは、その人が5歳まで(幼少期)に得られなかったものであることが多いと言われています。
私の浄化浄靈は、ご依頼をして下さる方に訪れる問題となるその方の生き方のクセや傾向を、一緒に見直し、根本解決を目指す。というスタイルですので、セッションの際には、浄靈で出てきたものを伝えるだけでなく、その根源を掘り下げていくということをするのですが、それを辿っていくと、幼少期に植え付けたままの想い、経験、環境が原因の方が本当に多いです。
「三つ子の魂百まで」と言うように、その経験がその人の土台となっていくわけですから、ネガティブな想いはその観点から物事を見るようになります。つまり、その土台がもとになって、同じ想いをしないように生きるクセがついています。そこに気づかずにいると、そのネガティブな経験や想いが、前世や霊的な影響を受けているとしても、浄化浄靈は一時的な解決になりかねません。
もちろん、本人に根付いたものではなく、霊的な影響でネガティブ思考にさせられていた方は、浄化浄靈で考え方自体が変わっていく方もいます。でもそれはレアケースです。
基本的には、前世のカルマや家族との因縁が原因でその幼少期の環境に置かれていることが多いですが、その環境を生き抜くために身についた生き方のクセというのは後天的なもので、浄化浄靈では変えられません。つまり、浄化浄靈をしても、それまでと同じ生き方をしていたら同じようなものが引き寄せ、同じような問題に苛まれ続ける。ということです。
執着も情熱も「こだわる」ということに変わりはありません。でもベクトルの向きが違うのです。その方の人生において、何か問題が起こった時、人生の転機が訪れた時に、その生き方のクセを振り返ること、見直すことを要所要所で行ってきた人は、この「こだわり」が情熱に向かい、それをしてこなかった方は執着となってその方の内側に張り付いています。そしてその執着は、幼少期に得られなかったものを、形を変えて追い続けていることに、セッションを通して気づくという方がとても多いです。
この「気づく」ということは、人生を劇的に変える、望む未来を創る可能性のドアに他なりません。気づくことの出発点は、視野を広くもつこと。視野はその人が見ている世界そのもの。当たり前ですが、視野が狭いと視野外に意識が向かず、全体を見れませんね。そうすると、思い込みや偏見がデフォルトの生き方に。この、思い込みや偏見が、「こだわり」を執着方向に向けるわけです。
今の世の中は、表面的な情報や短期的な目標ばかりに目が行き、深い洞察を見逃してしまう可視化に依存した世界です。それを肝に銘じておかないと、見えないものを見抜き、物事の核心に辿り着くことに必要な感覚は永遠の睡眠状態に入ってしまいます。
執着の炎は常に外から薪をくべられ、霊的なものの憑依を常態化するほどに波動を下げ、
情熱の炎は自分の内側で自分で薪をくべ続けるため、負を寄せないほど波動を上げます。
起点は同じ「こだわる」なのに、天と地ほどの差がありますね。
自分を動かす炎は、情熱でありたいものです。
執着の炎と情熱の炎、あなたの原動力はどっち?
